自分のルーツはいったいどこだろう、と、ふと考えることがある。狭い日本であっても、何代も前まで遡るのは難しそう(ちゃんと調べればわかるもの?)。
言葉にもルーツや由来がある。どこから来た(らしい)かがわかると、それまで何となく使っていた言葉に対して、「よう遥々こんなとこまで来なすった、まあお座んなさい」、というような声をかけたくなることもある…ちょっと盛りました。笑
明らかに外国語のように見えるものもあれば、もはや誰もルーツを知らず、その言葉に溶け込んでしまったものもあるはず。
いくつかの言語を学ぶと、外来語なんじゃないか…という”発見”をすることがある。そういった”発見”は、例え学術的な裏付けが取れなかったとしても、人々の交流の歴史の一端に触れたような、悠久のロマンを感じさせる。
僕は5年ほど前に中国語を勉強する機会を得たのだけれど、漢字が大の苦手だったこともあり苦労はしたものの、漢字というほぼ共通の文字とそれに込められた意味を少しは知っていたおかげで、かなりスムーズに一定レベルに達することができたと思っている。2000年強の歴史の中で、政治・経済・文化等のあらゆる面で、日本は中国から学んできたと考えれば、それもそのはずか。
とはいえ、言葉も時間とともに様々な人生を歩み、その場所その場所で多様な変化を遂げてしまうので、100%一致するかと言われれば、そうとも限らない。
インドネシア語で”lucu”という言葉がある。インドネシア語辞典であるKBBIによると、
lucu/lu·cu/ a menggelikan hati; menimbulkan tertawa; jenaka:
心をくすぐる、笑いを引き起こす、滑稽な、といった意味を持っているようだ。
初めてこの言葉を聴いたとき、これは中国語の”乐趣”に似ているなぁ、と思った。現代漢語辞典第5版によると、
乐趣 (le4qu4) 使人感到快乐的意味
人に楽しいと感じさせる、という意味を持っている。日本の漢字で書くと、”楽趣”となるので、何となく意味が通じそうな言葉でもある(実際日本語にはないが)。
カタカナで発音を表記するのは難しいが、lucuはルチュ、乐趣はルァチュ、に近い。
中国語の発音も2000年の間ずっと一緒であったかといえばそうではないので、一概にそうとはいえないが、アジアにおける中国の影響力を考えると、こうした言葉の相似性があってもおかしくはないと思う。
こうした”発見”をすると、いつ頃から使われるようになったのだろうか、この伝播が正しいとすると、それまでインドネシアに暮らしていた人たちはどうやって「楽しい」ということを表現していたんだろうか…など、知りたくなってしまうので面白い。
言葉のこういった側面に触れると、歴史もきちんと勉強しておかねば、と思うばかりである。
